第三節 創造目的 その2

(二)神の喜びのための善の対象

本文

 神の創造目的に関する問題を詳細に知るためには、我々がどんな状態にいるときに、喜びが生ずるかという問題を先に知らなければならない。喜びは独自的に生ずるものではない。無形のものであろうと、実体であろうと、自己の性相と形状のとおりに展開された対象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形状とを相対的に感ずるとき、ここに初めて喜びが生ずるのである。一つの例を挙げれば、作家の喜びは、彼がもっている構想自体が対象となるか、あるいはその構想が、絵画とか彫刻などの作品として実体化して対象となったとき、その対象からくる刺激によって、自己の性相と形状とを相対的に感じて初めて生ずるようになる。ここで、構想自体が対象として立つときには、それからくる刺激は実体的なものではないために、それによる喜びも実体的なものとなることはできない。人間のこのような性稟は、みな神に似たものである。ゆえに、神もその実体対象からくる刺激によって、それ(神)自体の本性相と本形状を相対的に感ずるとき、初めて喜びに満たされるということを知ることができる。
 四位基台の基盤の上で、三大祝福による天国が実現すれば、これがすなわち、神が喜びを感ずる世界であるということを、既に我々は説明してきた。そこで、これがいかにして神の喜びのための善の対象となるかを調べてみることにしよう。

概要
  • 喜びは独自的に生ずるものではない。
  • 無形のものであろうと、実体であろうと、自己の性相と形状のとおりに展開された対象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形状とを相対的に感ずるとき、ここに初めて喜びが生ずる。
  • 神もその実体対象からくる刺激によって、自体の本性相と本形状を相対的に感ずるとき、初めて喜びに満たされる。
  • すなわち、四位基台の基盤の上で、三大祝福による天国が実現すれば、これがすなわち、神が喜びを感ずることのできる善の対象となるのである。
補足

 先に万有原力の項で説明したが、神には「愛する対象を持たずにはいられない」衝動があるので神の創造は必然的であった。喜びは愛した結果であるので、喜びを得る前には愛の投入が先にあるのである。また、永遠に喜ぶためには愛したい衝動は喜びたい騒動よりも強くなければならない。愛すれば愛するほどその結果として現れる喜びは増大するのである。
 例えば、愛して育てた花と、いつの間にか庭に咲いていた花を比較した場合。その花が全く同じ様な花であったとしても、自分が育てた花のほうが喜びは大きくなる。また、愛する人のために一生懸命に作った料理をその対象に出した場合と、買ってきた料理を出した場合。もしその対象が全く同じように喜んでくれたとしても、当然に自分が作った料理の場合のほうが、帰ってくる喜びは大きくなるのである。
 つまり、神様も愛を完全投入して創造されたからこそ、被造世界から喜びを感じられるのである。
 よって、神によって創造された全ての被造物の創造目的は、愛するためであるとも言える。神は全ての被造物を愛すべき対象として創造されたのである。

 そして最も愛すべき対象となるのはご自身の似姿に最も近い存在となる、それが「三大祝福の成就」である。これが神様ご自身の真の愛が実体的に現れた状態でご自身の性相と形状を相対的に感じることができるので最高に喜びに満ちることができる。

三大祝福

本文

 神の第一祝福は個性を完成することにある。人間が個性を完成しようとすれば、神の二性性相の対象として分立された心と体とが、授受作用によって、合性一体化して、それ自体において、神を中心として個体的な四位基台をつくらなければならない。神を中心として心と体とが創造本然の四位基台を完成した人間は、神の宮となって(コリントⅠ三・16)、神と一体となるので(ヨハネ一四・20)、神性をもつようになり、神の心情を体恤することによって神のみ旨を知り、そのみ旨に従って生活をするようになる。このように個性を完成した人間は、神を中心としたその心の実体対象となり、したがって、神の実体対象となる。ここで、その心と神は、このような実体対象からくる刺激によって、それ自体の性相と形状とを相対的に感ずることができるので、喜びに満ちることができるのである。それゆえに、人間が神の第一祝福を完成すれば、それは神の喜びのための善の対象となるのである。このように、個性を完成した人間は、神の喜怒哀楽を直ちにそれ自体のものとして感ずるようになり、神が悲しむ犯罪行為をすることができなくなるので、絶対に堕落することがない。
 つぎに、神の第二祝福を成就するためには、神の二性性相が各々個性を完成した実体対象として分立されたアダムとエバが夫婦となり、合性一体化して子女を生み殖やし、神を中心として家庭的な四位基台をつくらなければならないのである。このように、神を中心として四位基台をつくった家庭や社会は、個性を完成した人間一人の容貌に似るようになるので、これは、神を中心とした人間の実体対象であり、したがって、また神の実体対象ともなるのである。それゆえに、人間や神は、このような家庭や社会から、それ自体の性相と形状とを相対的に感ずるようになり、喜びに満ちることができる。したがって、人間が神の第二祝福を完成すれば、それもまた神の喜びのための善の対象となるのである。
 そのつぎに、人間が神の第三祝福を完成すれば、それがどうして神の喜びのための善の対象となるかを調べてみることにしよう。この問題を解明するためには、まず性相と形状とから見た人間と万物世界との関係を知らなければならない。
 神は人間を創造する前に、未来において創造される人間の性相と形状とを形象的に展開して、万物世界を創造された。それゆえに、人間は万物世界を総合した実体相となるのである。人間を小宇宙という理由は、すなわちここにある。
 神は下等動物から、次第に機能の複雑な高等動物を創造されて、最後に、最高級の機能をもった存在として人間を創造された。ゆえに、人間にはすべての動物の構造と要素と素性とが、ことごとく備えられているのである。人間がいかなる動物の声でも出すことができるのは、いかなる動物の発声器の性能をも備えているということを立証するものである。また、人間はいかなる被造物の形や線の美もみな備えているので、画家は人間の裸体をモデルとして画法を研磨するのである。
 人間と植物とを比べてみても、その構造と機能には差異があるが、しかしすべてが細胞からできている点においては同一である。それから、人間には植物の構造と要素とその素性とが、ことごとく備えられている。すなわち、植物の葉はその容貌や機能から見て、人間の肺に該当する。葉が大気中から炭酸ガスを吸収するように、肺も酸素を吸収する。植物の幹と枝は人間の心臓に該当するもので、栄養素を全体に供給する。そして植物の根は人間の胃腸に該当するもので、栄養素を摂取する。さらにまた、植物の導管と師管の形態と機能とは、人間の動脈と静脈に該当するのである。
 また、人間は水と土と空気で創造されたので、鉱物質の要素をももっている。地球も人体構造の表示体になっている。地球には植物に覆われた地殻があり、地層の中には地下泉があって、その下に岩層に覆われた溶岩層があるが、これは、ちょうど、産毛で覆われた皮膚があって、筋肉の中には血管があり、その下には骨格と、骨格に覆われた骨髄がある人間の構造とよく似ている。
 神の第三祝福は、万物世界に対する人間の主管性の完成を意味する。人間が祝福を成就するためには、神の形象的実体対象である人間と、その象徴的実体対象である万物世界とが、愛と美を授け受けして合性一体化することにより、神を中心とする主管的な四位基台が完成されなければならない(本章第五節(二)③参照)。

概要
  • 神の第一祝福は個性を完成することにある。人間が個性を完成しようとすれば、神の二性性相の対象として分立された心と体とが、授受作用によって、合性一体化(個体)して、神を中心として個体的な四位基台をつくらなければならない。
  • 神の第二祝福を成就するためには、個性を完成したアダムとエバが夫婦となり、子女を生み殖やし、神を中心として家庭的な四位基台をつくらなければならない。
  • 神の第三祝福は、万物世界に対する人間の主管性の完成を意味し、人間と万物が合性一体化(被造世界)することにより、神を中心とする主管的な四位基台が完成されなければならない
補足

個性完成

 個性完成とは、神が臨在される”生心”に”肉心”を完全に従わせることで、神と完全一体となり、神の実体対象となることを言う。
 そのようになると、人間は”神性”を持つようになり、神の心情を体恤し、神のみ旨を知り、み旨に従って生活するようになる。よって、神はその実体対象からくる刺激によって、ご自身は性相と形状とを相対的に感ずることができるので、喜びを感じられるのである。
 個性完成について更に詳しく見ると、万物は人間を標本として創造されたので、人間は天宙の総合実体相であり、小宇宙であるため、人間が神の戒めを守り個性を完成させたなら、それは宇宙を創造したと同様の価値がある。それどころか創造の御業の最後を人間に任されているために、人間によってしか宇宙が完成しないのである。
 人間は個性を完成することで、神の創造性までも完全に受け継ぐことができ同時に被造世界に対する主人の資格を得て被造世界の主管主ともなるのである。

 堕落した世界の親であっても、我が子が成人した時のことを思い、お祝いを準備するし、何年も前から想像したり、このようなことを話してあげようと色々考えるのに、神様は何も準備しておられないはずがない。神様が準備しておられる最高の贈り物が「第一祝福」。本来ここに向かっていくのが神様の喜びでもあるし、我々の大きな喜びであるはず。そうなれないのは神の心情がわからずその価値が全くわかっていないから。

 個性完成したならば、「家庭完成」「主管性完成」は容易い。

 個性完成のためには、神の心情を知り、神の心情を体恤するための「心情教育」が必要である。

家庭完成

 神は陰陽の統一体でもあられるので、個性を完成して男女が一体となることで、神の似姿となるのである。また神がご自身の四大愛(四大心情圏)を感じることができるのは、第二祝福を成就した完成した家庭からである。神ご自身においては感じることのできなかった全ての愛の刺激を得られるのが第二祝福を成就した家庭である。
 家庭完成のためには規範教育が必要である。

主管性完成

 万物主管は、万物を管理、処理、保存などをすることを意味し、産業活動や政治、経済、科学、芸術など、物質を扱う一切の活動は、みな万物主管に含まれる。
 万物は人間のために創造されているので人間は万物の刺激を完全に感じることができるが、万物には霊人体がないために直接的に神の対象となり得ない。神が万物より得られる刺激は、人間を通してしか感じることができない。よって、第三祝福を完成し人間社会と万物とが主管的な四位基台を完成すれば、神は万物から得られる刺激を、人間を通じて完全に感じることができるようになるのである。
 主管性完成のためには主管教育(知育、技育、体育)が必要である。

 神は人間のために万物を創造されたが、本然の主管性を十分に発揮するには、神の似姿となり、神の息子娘の資格を得て、神の創造性に似なければならない。”主管”とは自分の所有しているものや創造したものに限られる言葉であって、万物を主管するためには万物の所有者または創造者、主人にならなければならないのである。
 それが第一祝福である個性完成である。第一祝福を完成することで”本然の万物主管”が可能となるのであるが、人間は長成期完成級で堕落したために、神の創造性は三分の二しか発揮されていない。

御言葉

 神様が人間に責任分担を与えた目的は創造の偉業に同参させるためです。95パーセントは神様が造り、5パーセントは人間が造ることによって、創造するとき神様だけが創造したのではなく人間も自ら創造したという条件になるというのです。このような同等な価値を賦与するためのものが責任分担です。(罪と蕩減復帰:天聖経)

 責任分担を完成した立場の人間とはどんな人間でしょうか。神様のように完全な人間だというのです。神様が95パーセントを創造しましたが、人間が共に100パーセント完成した創造の資格を賦与される位置に立っているので、人間の完成であると同時に神様の創造の偉業の完成になるのです。創造の偉業の完成であると同時にみ旨の完成であり、み旨の完成であると同時に神様の完成になるのです。(罪と蕩減復帰:天聖経)

創造目的完成

本文

 既に論じたように、万物世界はどこまでも、人間の性相と形状とを実体として展開したその対象である。それゆえに、神を中心とする人間は、その実体対象である万物世界からくる刺激によって、自体の性相と形状とを相対的に感ずることができるために、喜ぶことができるのである。そして、神はこのように、人間と万物世界とが合性一体化することによって、神の第三対象である被造世界によって、神自体の本性相と本形状に対する刺激的な感性を相対的に感じて、喜びに浸ることができる。人間がこのような神の第三祝福を完成すれば、それも神の喜びのための、また一つの善の対象となるのである。このように神の創造目的が完成されたならば、罪の影さえも見えない理想世界が地上に実現されたはずであって、このような世界を称して、我々は地上天国という。のちに詳細に説明するが、元来、人間は地上天国で生活して、肉体を脱ぐと同時に、霊界で自動的に天上天国の生活をするように創造されているのである。
 既に説明したすべての事実を総合してみると、天国は神の本性相と本形状のとおりに、個性を完成した人間一人の容貌に似た世界であるということを、我々は知ることができる。人間において、その心の命令が中枢神経を通じて、その四肢五体に伝達されることにより、その人体が一つの目的を指向して動じ静ずるように、天国においては、神の命令が人類の真の父母を通して、すべての子女たちに伝達されることにより、みな一つの目的に向かって動じ静ずるようになるのである。

概要
  • このように神の創造目的が完成されたならば、罪の影さえも見えない理想世界が地上に実現されたはずであって、このような世界を称して、我々は地上天国という。
  • 天国は、神の命令が人類の真の父母を通して、すべての子女たちに伝達されることにより、みな一つの目的に向かって動じ静ずるようになるのである。
補足

 三大祝福のが完成すれば神も人間も最高に喜びに満ちる世界がなされる。これが神の創造理想でありその世界を地上天国と呼ぶのである。

御言葉

 神様が被造世界を造るとき、そこには喜びがありました。造ってから見て、良しと言われました。喜びがあったということです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたときに感じるものです。造られた万物に神様の目的意識が内在していたがゆえに、創造された万物に神様は喜びを感じられたのです。それでは復帰の世界とはどのような世界なのでしょうか。一言で言えば、森羅万象の個体個体を見て神様を賛美することのできる心情的な因縁を立体的に備えた人々が住む世界です。天から見た人格の価値はそこにあります。それゆえ昔、聖フランシスのような人が、動物を見て、あるいは鳥を見て説教したというのも、うそではありません。夢のような話です。しかし夢ではなく事実です。

 神様がなぜ人間を創造したのでしょうか。男性は東であり、女性は西なのですが、縦的な神様を中心として東西四方、平面が必要です。そこでは三六〇度なので無限な面があるのです。その面を通して何をしようというのでしょうか。天国の民を生産する工場、出発地がこの地球です。それゆえ天国の民は、この地球で生きてから行った人です。行ってみてください。地球星のほかに国はありません。宇宙に人がいるなどと言っていますが、いったい何が住んでいるというのでしょうか。宇宙はすべて人ゆえに造られたものです。

天聖経:真の神様

お父様の万物愛の境地(史吉子氏の証し)

 お母様がデパートで新しいコップを買って来られると、すごく残念そうにされながら、「私が使ってたコップはどこに行ったか?」と探されます。「まだ使えるのに、どうして替えるのか?」ということです。「私がそのコップで水一杯を飲みながら感じた、美しい思い出がどれだけ込められているのかわかるのか?」と言われます。

参考

三大祝福成就のための教育

以下、統一思想要綱 P347-370:教育論より抜粋

■教育の三形態

 個体完成のためには心情教育が必要であり、家庭完成のためには規範教育が必要であり、主管性完成のためには技術教育、知識教育、体育などの主管教育が必要である。

(一)心情教育

<個体完成のための教育 >

 神様の完全性に似るようにする教育が心情教育です。神様の完全性に似るとは、性相と形状の統一性に似ることであり、それは生心と肉心が主体と対象の関係において授受作用を行って、一つになった状態をいいます。神様において、性相と形状は心情を中心にして授受作用を行っており、統一をなしています。したがって生心と肉心が一つになるためには、心情が生心と肉心の授受作用の中心にならなければなりません。心情が生心と肉心の中心になるためには、神様の心情を体恤して、個人の心情が神様の心情と一致しなければならないのです。個人の心情が神様の心情と一致するようにする教育を心情教育といいます。ゆえに心情教育が個体完成のための教育となるのです。 
 心情教育とは、言い換えれば、神様が人間を愛するように、子女を万民や万物を愛しうるような人間に育てる教育です。そのように人間に育てるためには、子女が神様の心情を体恤するようにさせなくてはなりません。それでは、子女はいかにして神様の心情を体恤するようになるのでしょうか。そのためにはまず神様の心情を理解させなければなりません。

<神様の心情の表現形態>

 神様の心情は創造と復帰の摂理を通じて三つの形態に表現されます。すなわち希望の心情、悲しみの心情、苦痛の心情です。
 心情教育のためには、このような神様の三つの心情を被教育者に理解させなければなりません。

(二)規範教育

<家庭完成のための教育> 

 家庭完成のための教育とは、一人の男性とひとりの女性が夫婦となったとき、神様の陽陰の調和に似るようにするための教育であり、本然の夫婦となれる資格を備えるための教育です。人間堕落が規範(神様の戒め)を守らなかったことにあったので、この教育はまず神様の戒めを守るようにするための規範教育です。規範教育は夫婦となって家庭を形成する資格を備えるための教育です。男性は夫としての道理を、女性は妻としての道理を身につけなければなりません。また家庭における父母と子女の本然のあり方や兄弟姉妹のあり方も、規範教育に含まれます。 
 規範教育において、特に重要なのは、性の神聖性、神秘性について教えることです。性は結婚を通じて初めて体験するものであって、それまでは決して冒してはならないのです。聖書によれば、神様はアダムとエバに「善悪を知る木からは取って食べてはならない」(創世記2/17)といわれました。善悪の果はエバの性的愛(『原理講論』P103)を意味するために、「善悪の果を取って食べてはならない」ということは、性(性の器官)は神聖なものであって、性の領域を汚すことによって、性を冒してはいけないということを意味します。 
 この戒めはアダムとエバだけのものではなくて、現在も有効であり、未来にも有効な永遠なる天の至上命令なのです。これはまた男女が結婚したあとにも、他の異性との脱線行為をすることは決して許されないという至上命令です。したがって規範教育とは、第一に、神様の戒めを守りながら神様の陽陰の調和に似るようにするための教育、すなわち夫婦の資格を備えるための資格教育なのです。

<理法的存在になるための教育> 

 人間はロゴス(理法)によって創造されたために、規範教育はまた人間がロゴス的存在、理法的存在になるように、すなわち天道に従うようにするための教育であり、理法教育ともいいます。天道とは、宇宙を貫いて作用している法則であって、授受作用の法則のことをいいます。天道から自然法則と価値法則が導かれますが、そのうち価値法則が規範となるものなのです。 
 規範教育は、心情教育と並行して行われなければなりません。規範教育そのものは義務だけを強要しがちだからです。規範とは、「……してはならない」とか、「……しなければならない」という形式で行為を規定するものであるために、そこに愛がなければ、その規範は形式化され律法的なものになりやすいのです。
 それゆえ規範教育は心情教育と統一されなければならないのです。すなわち家庭と学校において、愛の雰囲気の中で子供の規範教育が実施されなければなりません。規範のために愛が冷えればその規範は形式化してしまうからです。

(三)主管教育(知識教育、技術教育、体育)

<主管性完成のための教育> 

 主管教育は主管性完成のための教育です。主管性完成のためには、まず主管の対象に対する情報、すなわち知識を習得しなければなりません。そのために、まず知識教育(知育)が必要なのです。次に、対象を主管するのに必要な創造性を開発するための技術を習得する教育も必要です。そのような教育が技術教育(技育)です。そして主管をよくするには、主管の主体である人間の体力を増進させなければなりません。そのための教育が体育です。以上の知育、技育、体育を合わせて主管教育といいます。 
 知識教育において、主管に必要な知識を学ぶのですが、それは主管の対象の領域によって、自然科学をはじめ、政治、経済、社会、文化など、広範囲の分野にわたっています。それらはみな、万物主管の概念に含まれるのです。技術教育において、習得する技術は万物主管の直接的な手法として主管教育の中心となるのであり、体育における体位の向上と体力の増進も、万物主管に肝要なのはもちろんです。そして技術教育や体育には、さらに細分された専門分野があります。芸術教育すなわち芸能教育も、一種の技術教育と見なすことができるのです。 
 要するに、主管教育は、創造性を発揮するための手段を学ぶものです。創造性は天賦のもので、人間には誰でも先天的な可能性として備わっているのですが、これを現実的に発揮するためには主管教育が必要なのです。

<創造性の開発と二段構造の形成>

 創造性を開発するとは、要するに神様の創造の二段構造に倣って内的四位基台形成の能力を増大させ、外敵四位基台形成の熟練度を高めることを意味します。 
 内的四位基台の形成能力とは、ロゴスの形成能力、すなわち構想の能力をいいます。そのためには知識教育を通じて知識を多く獲得して、内的形状(観念、概念など)の内容を質的、量的に高めなければなりません。得られた知識(情報)が多ければ多いほど構想は豊富になります。ロゴスを形成するとは、いわゆるアイデアを開発することであり、産業における技術革新(イノベーション)も、絶え間ないロゴスの形成の反復によってなされるのです。 
 次に、外的四位基台形成の能力とは、一定の構想に従い、道具や材料を用いて、その構想を実体化する能力を高めること、すなわち外的授受作用の熟練度を高めることをいいます。そのためには技術教育が必要となります。また身体的条件が必要であることはいうまでもありません。したがって、体育による体力の増進も必要なのです。

<普遍教育を基盤とした主管教育> 

 主管教育は心情教育および規範教育を基盤として、それらと並行して行われなければなりません。知識教育や技術教育や体育は、心情(愛)と規範に基づいて初めて健全なものとなり、創造性が十分に発揮されるようになるからです。 
 心情教育と規範教育は、全人類が共通に受けなければならない教育であるので、普遍教育といいます。それに対して主管教育は、個人の資質によって学ぶ領域ですので、ある人は自然科学、ある人は文学、またある人は経済学を専攻するというように、原則的に個別教育となります。 
 ここで普遍教育と個別教育は、性相と形状の関係にあるといえます。心情教育と規範教育は精神的な教育、すなわち心を対象とする教育であり、主管教育は万物を主管する教育だからです。したがって普遍教育(心情教育、規範教育)と個別教育(主管教育)は主体と対象の関係において、並行して行われなくてはならないのです。それが均衡教育なのです。
 そのような均衡教育が実施されるとき、初めて科学技術は善なる方向に向かっていくようになります。そうすれば公害問題や自然破壊などの問題も自然に解決していくことでしょう。また教師たちも、そのような教育を通じて教師としての権威を取り戻すことができるようになるのです。 
 ここで付記すべきことは、教育の原点は家庭教育にあるということです。家庭教育の延長、拡大、発展したものが学校教育です。したがって、家庭教育と学校教育が一体とならなければならないのです。そうでなければ、普遍教育としての心情教育と規範教育はそのままでは成立しにくく、したがって教育の統一性は期待されにくいのです。

■被教育者の理想像

 統一教育論における被教育者の理想像とは、第一に人格者、第二に善民、第三に天才です。それぞれ心情教育、規範教育、主管教育に対応した理想像です。したがって教育を理想的人間像という面から見れば、心情教育は人格者教育、規範教育は善民教育、主管教育は天才教育ということができます。

<人格者教育>

 人格者とは心情教育によって形成される人間像です。したがって人格者教育とは、被教育者をして神様の心情を体恤し、日常生活において神様の愛を実践するように指導し、人格者として育てるための教育です。心情は愛の源泉であり、人格の核心です。心情(愛)が乏しければ、いくら知識をたくさんもっていても、いくら体力があっても、いくら強大な権力があっても、人格者とはなりえないのです。世俗的概念では、人格者とは一定の徳性と知識と健康を備えた人間をいうのですが、統一思想において、人格者とは神様の心情を体恤し、愛を実践する人をいうのです。 
 それでは理想的な人格者の姿は、果たしていかなるものなのでしょうか。それは心情(愛)を基盤として、知情意の機能が均衡的に発達した全人的品格を完成した人間をいいます。人格者は何よりも神様の心情を体恤しながら生きるために、万人と万物に対していつも真の愛を実践しようと努力します。神様に対しては忠孝の真心で神様の悲しみと苦痛を慰めてあげようとするのであり、神様の怨讐に対しては公的な敵愾心すなわち公憤心をもちながらも、神様の真の愛を受け継いで涙ながらに怨讐を許すのです。普段は温柔、謙遜の徳と温情にあふれる姿勢をもって、縦的、横的価値観を実践します。法道と愛の実践者であるので、他人に対しては最も優しく、自分に対しては最も厳しいのです。対人関係においては、愛と法道の統一を生活化します。法道のない愛は子供を惰弱にし、愛のない法道は拘束感だけを与えるからです。これが心情教育に寄って形成される人格者の姿です。一言で表現すれば、人格者とは万人と万物に対して神様の真の愛を実践する人です。

<善民教育> 

 善民とは性品が善なる国民であるという意味であって、規範教育において形成される人間の理想像です。規範教育は普通、学校で行われますが、その基盤は家庭にあります。家庭は宇宙秩序の縮小体であり、社会、国家、世界は家庭の秩序体系を拡大したものとなっています。したがって、家庭において規範教育をよく受けた人は、社会、国家、世界における規範生活をよく行うことができるのです。そのような人は、善なる家庭人でありながら、善なる社会人であり、善なる国家人であり、善なる世界人となるのです。すなわち、規範教育を通じて善なる家庭人となれば、社会、国家、世界など、どこにおいても、その時、その時の規範にふさわしい行動をするようになるのです。 
 なお地上において善民として生活すれば、霊界に行っても同様に善ある霊界人となります。地上においても霊界においても、善ある生活をする善民を善なる天宙人といいます。家庭、社会、国家、世界、天宙における善民の生活がすなわち天国における生活なのです。

<天才教育> 

 主管教育によって形成される人間の理想像が天才です。天才とは創造性の豊かな人をいいますが、人間は本来みな天才なのです。なぜならば人間はおよそ、神様の創造性を与えられた創造的存在だからなのです。「天才」という言葉そのものが「天が与えた才能」という意味であり、神様の創造性を受け継いだことを意味するのです。つまり人間は生まれた時から、可能性として神様の創造性を与えられているのです。したがって先天的に欠陥を持って生まれた人を除けば、すべての人間は、与えられた創造性を100%発揮すれば、天才となるのです。しかし創造性をそのごとくに発揮するためには教育が必要です。その教育が主管教育なのです。 
 これまでに述べてきたように、主管教育は心情教育と規範教育を基盤として並行して行われます。すなわち主管教育は均衡教育の一環として行われなければならないのです。そうするとき、初めて真の創造性が現れるのです。心情教育や規範教育が不十分であるか、全く行われないなら、創造性は十分に発揮されません。 
 人間には個性が与えられているので、創造性にも特性があります。ある人には音楽的な創造性が、ある人には数学的な創造性が、ある人には政治的な創造性が、またある人には事業的な創造性が与えられているのです。そして各人が自分に与えられた創造性を十分に発揮すれば、音楽の天才となり、数学の天才になり、政治の天才になり、企業経営の天才になるのです。すなわち各人は個性にかなった特有の天才になり得るのです。 
 しかし人間は堕落した環境に住んでいるために、神様から授かった創造性を十分に発揮できなくなり、天才になりにくい状況になってしまったのです。現実は数万人に一人が天才になりえる程度であって、大部分の人間はみな凡才にとどまるしかないのです。これが、堕落した社会における主管教育の一つの側面です。 
 さらに天才教育において、霊界の協助を受けるようになります。ことに神様を中心とした家庭を基盤として均衡教育を行えば、善霊たちが霊的に協助するために、子供の天才的素質はすみやかに発揮されるようになるのです。

主管性完成から見た人生の目的

 神の創造目的は「喜び」であるが、人間から見る”被造目的”は「喜びを与えるため」であので、”人生の目的”とは、神の創造理想である三大祝福の完成に向かいながら喜びをお返しすることである。
 これが人間の被造目的であるので、人間はそこに向かっているときに幸福を実感できるし、幸福を感じれていないとすれば、そこに向かっていないからである。
 神の創造理想において、この第三祝福に向かう行為が、唯一無二の個性を活かして社会に貢献する「仕事」とならなければならないはずであると思うが、殆どの場合、その仕事が個人の個性にかなったものでないために「仕事=ストレス」となっているのである。つまり、仕事が神を喜ばす活動となっていないからであり、創造目的に向かっていないからである。
 人生の重要な時間と労力を必要とする経済活動において、神を喜ばすことができていないとすれば、非常に残念な人生となるのではないだろうか?
 人間は個性真理体であるので必ず神様から個人個人にその人だけが持っている特有の個性を与えられ、その個性を活かした経済活動をすることで、その個性真理体にあった万物の主管性が発揮され、神に喜びをお返しするのが本然の世界ではないかと思う。
 もちろん「個性完成」「家庭完成」は非常に重要であるが、「主管性完成」に向けても同様に非常に重要である。ここに関心が行かずして理想世界の実現は不可能である。