第一節 神の二性性相と被造世界 その1

(一)神の二性性相

 「創造原理」の内容は全般的に「統一思想要綱」により詳しく記されている。特に神の属性に関する理論、統一思想要綱 第一章「原相論」は、「創造原理」より深く理解するのに有効であると思われるので、その冒頭部分を下記に紹介する。

 神の属性に関する理論が原相論である。ここで「原相」とは、原因的存在である神の属性という意味である。神の属性には形の側面と、性質、性稟、能力などの機能的な側面がある。前者を「神相」といい、後者を「神性」という。
 従来のキリスト教やイスラム教においても、神の属性を様々に表現してきた。すなわち、全知、全能、遍在性、至善、至美、至真、正義、愛、創造主、審判主などと表現してきた。統一思想の立場から見ても、このような性稟は神の属性に違いない。しかし、神の属性をこのようにとらえるだけでは、現実問題の根本的な解決は不可能である。
 統一思想から見るとき、従来のこのような神の属性は神性である。ところが神にはこのような神性のほかに、より重要な属性があるのであり、それが神相である。統一原理でいう「神の二性性相」が、まさにそれである。

新版 統一思想要綱 23ページより
※図は便宜上、分けて書いてあるが、原相内では完全一体となって統一されている。

神の神性

本文

 無形にいます神の神性を、我々はいかにして知ることができるだろうか。それは、被造世界を観察することによって、知ることができる。そこで、パウロは、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ロマ一・20)と記録している。あたかもすべての作品は、その作者の見えない性稟の実体的展開であるように、被造世界の森羅万象は、それを創造し給うた神の見えない神性の、その実体対象として展開されたものなのである。それゆえ、作品を見てその作者の性稟を知ることができるように、この被造万物を見ることによって神の神性を知ることができるのである。(42)

概要
  • 無形にいます神の神性を、いかにして知ることができるだろうか。
  • それは、被造世界を観察することによって、知ることができる(ロマ一・20)。
  • 被造世界の森羅万象は、それを創造し給うた神の見えない神性の、その実体対象として展開されたものである。
  • それゆえ、作品を見てその作者の性稟を知ることができるように、この被造万物を見ることによって神の神性を知ることができる。
補足

 絵画には画家の目に見えない心が現れる。素材選びから色使い、筆跡などによって、楽しい、かわいい、悲しい、力強い絵など。また、作品へ投入する時間からもその作品への思いがわかる。
 同じようにこの結果”の世界から原因を検証する「仮説演繹法」において、神(被造世界の第一原因)の神性を探る。

※ここで言う神性とは統一思想の「神性」ではなく、神の属性全般に対してのことである。

被造世界の共通事実

本文

 今我々は、神の神性を知るために、被造世界に普遍的に潜んでいる共通の事実を探ってみることにしよう。存在しているものは、いかなるものであっても、それ自体の内においてばかりでなく、他の存在との間にも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって、初めて存在するようになるのである。これについて実例を挙げてみれば、今日、すべての物質の究極的構成要素といわれている素粒子は、みな、陽性、陰性、または陽性と陰性の中和による中性を帯びている。これらが二性性相の相対的関係を結ぶことによって、原子を形成するのである。
 さらに、原子も、陽性または陰性を帯びるようになるが、これらの二性性相が相対的関係を結ぶことによって、物質の分子を形成するのである。このように形成された物質は、また、互いに二性性相の相対的関係によって植物または動物に吸収されて、それらの栄養となるのである。
 さらに、すべての植物は各々雄しべと雌しべとによって存続するし、また、すべての動物は各々雄と雌とによって繁殖、生存するのである。人間についての例を見ても、神は男性のアダムを創造されてのち、「人がひとりでいるのは良くない」(創二・18)と言われ、その対象として女性のエバを創造なさったあと、初めて「はなはだ良(善)かった」(創一・31)と言われたのである。さらに、あたかも、電離した陽イオンや陰イオンが、各々陽子と電子との結合によって形成されているように、雄しべや雌しべ、あるいは雄や雌もまた、各々それ自体の内部で、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって、初めて存在することができるのである。したがって、人間においても、男性には女性性相が、女性には男性性相が各々潜在しているのである。そればかりでなく、森羅万象の存在様相が、表裏、内外、前後、左右、高低、強弱、抑揚、長短、広狭、東西、南北などのように、すべて相対的であるのも、あらゆる被造物が二性性相の相対的関係によって、互いに存在できるように創造されているからである。(42-43)

概要
  • 神の神性を知るために、被造世界に普遍的に潜んでいる共通の事実を探ってみることにしよう。
  • 存在しているものは、いかなるものであっても、それ自体の内においてばかりでなく、他の存在との間にも、陽性と陰性の二性性相が相対的関係を結ぶことによって、初めて存在するようになる。
  • 実例を挙げてみれば、物質は陽性と陰性、植物は雄しべと雌しべ、動物は雄と雌、人間は男性と女性が相対的関係を結んでいる。
補足

 まず、被造世界の共通事実として「陽と陰」の関係があるとしている。

 ここで重要なのは存在しているものは、いかなるものであっても、それ自体の内においてばかりでなく、他の存在との間にも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって、初めて存在するようになる」とういうことである。

 生物、無生物にかかわらず”あらゆる存在”は陽性か陰性(物質においてはそれが中和した中性もある)に分類できる。そしてその存在は例外なく全てが、陽性と陰性の関係性の中でその存在を維持していると言える。

 例として、人間において男性だけでは繁殖ができず、女性だけでも繁殖できない。動物、植物においても同様である。更に、人間個体自体を例にしてもその生命を維持するためには、活発に活動(陽)するばかりでなく睡眠(陰)も必要であるし、体内においては常に細胞の生死が繰り返されている。

 素粒子においても現在まだ解明されていなことが多いが、宇宙に存在するあらゆる粒子には、それと対になる”反粒子”が存在することがわかっている。

 また、単細胞生物においては例外かと思われるが、そうではない。ゾウリムシを例に取ると、ゾウリムシは同一の遺伝子による分裂による増殖だけでは約700回が限度といわれ、それ以上に増殖するには、遺伝子が異なる2個体(陽性陰性と言える)の接合による遺伝子交換をしなければ、増殖し続けることができず死に至る。

 他の単細胞生物に於いては不明であるが、将来の研究によって全ての単細胞生物も同様の性質が確認できるであろうと思われる。

 更に生物以外においても、「表裏、内外、前後、左右、高低、強弱、抑揚、長短、広狭、東西、南北」として例を上げている。

 男性がいなければ女性の存在自体が意味をなさないのと同様に、”表”という概念がないのならば”裏”という概念も生まれてこない。”右”というからには”左”という概念が存在することが前提となっているのである。

文氏の御言葉

 すべての被造物は、愛を中心としてペアとなって連結しています。その愛を除いてしまえば、砂粒のように散り散りばらばらになるのです。皆さんはどのような愛を願いますか。愛の世界には、個人主義の概念はありません。ペアの概念です。昆虫の世界においてもプラスとマイナス、主体と対象がなければなりません。これがすべての被造物の存在様相です。はっきりと分かりましたか。 

 鉱物世界も陽イオンと陰イオン、すべて相対になっています。百七個にもなる元素も、どこにでも行ってくっつくわけではありません。実験室でいくら強制して付けても駄目です。しかし、自らの相対になると、一つになれないように無理にいろいろしても、神様が止めてもぴたっとくっつきます。それは知っているでしょう? すべてペア・システムになっています。鉱物もそうであり、動物も植物もそうです。すべてペア・システムになっています。すべて陰陽の道理に通じています。

 神様から造られたすべてのものはペア・システムです。鉱物世界もペア・システムであり、級は低いのですが陽イオンと陰イオンも愛を表示しながら絡み合っているのです。これは、レバレンド・ムーンがこの世に現れて、歴史始まって以来初めて発表するのです。神様御自身も真の愛を絶対視して、それに絶対服従して生きるというその起源を発表したのは、歴史上レバレンド・ムーンが初めてです。それは観念ではなく事実です。ですから、神様は、真の愛を探し出すために創造されたのです。

宇宙の根本:天聖経

性相と形状の二性性相

本文

 以上の記述によって、我々はすべての存在が、陽性と陰性との二性性相による相対的関係によって存在を保ち得ているという事実を明らかにした。さらに、我々はすべての存在を形成しているもっと根本的な、いま一つの二性性相の相対的関係を知らなければならない。存在するものはすべて、その外形と内性とを備えている。そして、その見えるところの外形は、見ることのできない内性が、そのごとくに現れたものである。したがって、内性は目に見ることはできないが、必ずある種のかたちをもっているから、それに似て、外形も目に見える何らかのかたちとして現れているのである。そこで、前者を性相といい、後者を形状と名づける。ところで、性相と形状とは、同一なる存在の相対的な両面のかたちを言い表しており、形状は第二の性相であるともいえるので、これらを総合して、二性性相と称するのである。
 これに対する例として、人間について調べてみることにしよう。人間は体という外形と心という内性とからできている。そして、見える体は見えないその心に似ているのである。すなわち、心があるかたちをもっているので、その心に似ている体も、あるかたちをもつようになるのである。観相や手相など、外貌から、見えないその心や運命を判断することができるという根拠もここにある。それゆえ、心を性相といい、体を形状と称するのである。ここで、心と体とは、同一なる人間の相対的両面のかたちをいうのであって、体は第二の心であるということもできるので、これらを総合して二性性相であるという。これによって、あらゆる存在が性相と形状による二性性相の相対的関係によって存在しているという事実を、我々は知るようになった。

 それでは、性相と形状とは、 お互いにいかなる関係をもっているのであろうか。無形の内的な性相が原因となって、それが主体的な立場にあるので、その形状は有形の外的な結果となり、その対象の立場に立つようになる。したがってこの両者はお互いに、内的なものと外的なもの、原因的なものと結果的なもの、主体的なものと対象的なもの、縦的なものと横的なものとの相対的関係をもつようになるのである。これに対する例として、再び人間を取りあげてみることにしよう。心と体は、各々性相と形状に 該当するもので、体は心に似ているというだけではなく、心の命ずるがままに動じ静ずる。それによって、人間はその目的を指向しつつ生を維持するのである。したがって、心と体とは、内外、原因と結果、主体と対象、縦と横などの相対的関係をもっているということができるのである。(43-45)

概要
  • すべての存在を形成しているもっと根本的な、いま一つの二性性相の相対的関係を結んでいる。存在するものはすべて、外形と内性とを備えている。
  • 見えるところの外形は、見ることのできない内性に似ているので、内性を性相といい、外形を形状と名づける。
  • 性相と形状とは、同一なる存在の相対的な両面のかたちを言い表しており、形状は第二の性相であるともいえるので、これらを総合して、二性性相と称する。
  • これに対する例として、人間は体という外形と心という内性とからできている。
  • 心を性相といい、体を形状と称する。
  • 体は第二の心であるということもできるので、これらを総合して二性性相であるという。
  • これによって、あらゆる存在が性相と形状による二性性相の相対的関係によって存在しているという事実を知ることができる。
補足

 陽性陰性の二性性相よりもより根本的な二性性相の相対的関係として、「性相」と「形状」をがある。

 形状は目に見えない性相がその如くに現れたものであるが、性相の変化が直ちに形状に現れるわけではなく、時間性を経過して現れてくる。

 陽性と陰性、性相と形状は共に、内外、原因と結果、主体と対象、縦的なものと横的なものとの関係になっている。心が命令することで体を動かす。心が主体となって体を従わせる。

 いかなる被造物にも、性相と形状とがあり、無形の性相が有形の形状的部分を動かすことによって被造物として存在せしめるようになる(下図:性相形状の階層的構造を参照)。

神の二性性相

本文

 既に述べたように、存在するものはいかなるものでも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係によって存在するという事実が明らかにされた。それゆえに、森羅万象の第一原因としていまし給う神も、また、陽性と陰性の二性性相の相対的関係によって存在せざるを得ないということは、当然の結論だといわなければならない。創世記一章27節に「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」と記録されているみ言を見ても、神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体としてもいまし給うということが、明らかに分かるのである。(45-46)

 このように、いかなる被造物にも、その次元こそ互いに異なるが、いずれも無形の性相、すなわち、人間における心のように、無形の内的な性相があって、それが原因または主体となり、人間における体のようなその形状的部分を動かし、それによってその個性体を、ある目的をもつ被造物として存在せしめるようになるのである。それゆえ、動物にも、人間の心のようなものがあり、これがある目的を指向する主体的な原因となっているので、その肉体は、その個体の目的のために生を営むようになるのである。植物にもやはりこのような性相的な部分があって、それが、人間における心のような作用をするので、その個体は有機的な機能を維持するようになるのである。そればかりでなく、人間が互いに結合するようになるのはそれらの中に各々結合しようとする心があるからであるのと同様、陽イオンと陰イオンとが結合してある物質を形成するのも、この二つのイオンの中に、各々その分子形成の目的を指向するある性相的な部分があるからである。陽子を中心として電子が回転して原子を形成するのも、これまた、これらのものの中に、各々その原子形成の目的を指向する性相的な部分があるからである。
 また、今日の科学によると、原子を構成している素粒子は、すべてエネルギーから成り立っているという。それゆえ、そのエネルギーが素粒子を形成するためには、必ずそのエネルギー自体の中にも、素粒子形成の目的を指向する性相的な部分がなければならないということになる。更に一歩進んで、このように性相と形状とを備えているそのエネルギーを存在せしめることによって、あらゆる存在界の究極的な原因となるところのある存在を我々は追求せざるを得なくなるのである。この存在は、まさしく、あらゆる存在の第一原因として、これらすべてのものの主体となる性相と形状とを備えていなければならない。存在界のこのような第一原因を我々は神と呼び、この主体的な性相と形状のことを、神の本性相と本形状というのである。我々は、今、パウロが論証したように、あらゆる被造物に共通に見られる事実を追求することによって、神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体として、すべての存在界の第一原因であられることが理解できるようになった。

概要
  • あらゆる存在の第一原因は、これらすべてのものの主体となる性相と形状とを備えていなければならない。
  • 存在界のこのような第一原因を我々は神と呼び、この主体的な性相と形状のことを、神の本性相と本形状という。
  • また、森羅万象の第一原因であられる神は、陽性と陰性の二性性相の相対的関係として存在する。
補足

 下の図を見ると、それぞれ植物には鉱物の、動物には鉱物と植物の、人間には全ての性相と形状の性質が含まれている事がわかる。

性相形状の階層的構造(統一思想要綱より)

 更に詳しく見ていくと、原子は”素粒子”によって構成され素粒子の中には原子形成の目的がなければならず。その素粒子の構成要素は”エネルギー”であるという。科学で認識できる最小単位がここまでであるが、そのエネルギーが素粒子を形成するためには、必ずそのエネルギー自体の中にも、素粒子形成の目的を指向する性相的な部分がなければならない。
 更に一歩進んで、エネルギーを存在せしめる究極的な存在を追求せざるを得なくなる。
 このような第一原因を我々は神と呼び、この主体的な性相と形状のことを、神の本性相と本形状というのである。

※科学者がDNAを合成し生命の外観(形状)を創りだしたとしても、性相を創りだすことは絶対にできない。

二性性相の相対的関係

本文

 それでは、性相と形状の二性性相と、陽性と陰性の二性性相とは、互いにいかなる関係をもっているのだろうか。本来、神の本性相と本形状は、各々本陽性と本陰性の相対的関係をもって現象化するので、神の本陽性と本陰性は、各々本性相と本形状の属性である。それゆえ、陽性と陰性とは、各々性相と形状との関係と同一なる関係をもっている。したがって、陽性と陰性とは、内外、原因と結果、主体と対象、または縦と横との相対的関係をもっている。神が男性であるアダムの肋骨を取って、その対象としての女性であるエバを創造されたと記録してある理由もここにあるのである(創二・22)。我々はここにおいて、神における陽性と陰性とを、各々男性と女性と称するのである。(46)

概要
  • 神の性相と形状の二性性相と、陽性と陰性の二性性相とは、互いにいかなる関係をもっているのだろうか。
  • 神の本性相と本形状は、各々本陽性と本陰性の相対的関係をもって現象化するので、神の本陽性と本陰性は、各々本性相と本形状の属性である。
補足

 本性相と本形状、本陽性と本陰性は、それぞれ「同一なる存在の相対的な両面の形」である。
 更に本陽性と本陰性は本性相と本形状の”属性”であり、性相の中に様々な陰陽が現れ、形状の中にも様々な陰陽が現れる。言い換えれば、陽性と陰性は神の”間接的な属性”である。(参考参照)

※ここで「陽性と陰性」は「性相と形状」はの属性であるので、神より創造された人間は人格的に完成してから家庭を持たなければならないという根拠を導き出せる。統一原理から見るとき家庭をもつ前に性的関係を結ぶことはあってはならないことである。

本文

 神を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成した人間の一個体のように、神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である。したがって、この有機体も性相と形状とを備えなければならないわけで、その性相的な存在が神であり、その形状的存在が被造世界なのである。神が、被造世界の中心である人間を、神の形状である(創一・27)と言われた理由もここにある。したがって、被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、形状的な女性格対象として、被造世界を創造せざるを得なかったのである。コリントI一一章7節に、「男は、神のかたちであり栄光である」と記録されている聖句は、正にこのような原理を立証しているのである。このように、神は性相的な男性格主体であられるので、我々は神を父と呼んで、その格位を表示するのである。上述した内容を要約すれば、神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。(46-47)

概要
補足

神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体
心(本心)を主体として体を統一させた存在。人間で言うならば有言実行、善に生きる人格者と言える。

本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体
男性と女性の統一体。つまり「父母なる神(天の父母様)」であられる。

被造世界に対しては、性相的な男性格主体
被造世界を主管する立場におられる。
無形の神は実体的にご自身の愛を感じるため、有形の世界を創造する必要があった。

参考

 本陽性と本陰性は本性相と本形状の”属性”ということを人間を例にして表すと表のようになる。
 統一思想から見るとき、男子は陽性を帯びた「性相と形状の統一体」であり、女子は陰性を帯びた「性相と形状の統一体」である。

性相と形状の異同性

 次は、性相と形状が本質的に同質的なのか異質的なのかという、性相と形状の異同性について調べてみることにする。…もしそれらが全く異質的なものだとすれば、神は二元論的存在となってしまう。
 …結論から言えば、本性相と本形状は同質的な要素の二つの表現態なのである。
 これはあたかも水蒸気と氷が、水(H2O)の二つの表現態であるのと同じである。水において、水分子の引力と斥力が釣り合っているが、熱を加えて斥力が優勢になれば気化して水蒸気となり、気温が氷点下に下がって、引力が優勢になれば氷となる。水蒸気や氷はいずれも水の表現態、すなわち水分子の引力と斥力の相互関係の表現様式にすぎないのである。したがって両者は全く異質的なものではない。
 同様に、神の性相と形状も、神の絶対属性すなわち同質的要素の二つの表現態なのである。絶対属性とは、エネルギー的な心、あるいは心的なエネルギーのことである。つまりエネルギーと心は全く別のものでなくて、本来は一つになっている。この絶対属性が創造において分かれたのが、神の心としての性相と、神の体としての形状なのである。
 性相は心的要素から成っているが、そこにはエネルギー的要素も備わっている。ただ心的要素がエネルギー的要素より多いだけである。また形状はエネルギー的要素から成っているが、そこには心的要素も備わっていて、エネルギー的要素が心的要素より多いだけである。そのように性相と形状は全く異質的なものではない。両者はいずれも、共通に心的要素とエネルギー的要素をもっているのである。
 被造世界において、性相と形状は精神と物質として、互いに異質的なものとして現れるが、そこにも共通の要素がある。例えば心にもエネルギーがあるが、そのことを示す例として次のようなものがある。カエルなどから採取した、神経のついている骨格筋(神経筋標本)において、神経に電気的刺激を与えると筋肉は収縮する。一方われわれは、心によって手や足の筋肉を動かす。すなわち心が神経を刺激し筋肉を動かしている。これは、心にも物質的なエネルギー(電気エネルギー)と同様のエネルギーがあるということを意味している。

統一思想要綱P34-36より抜粋

本性相と本形状

 神の性相はさらに内的性相と内的形状という二つの部分からなっている。内的性相は機能的部分すなわち主体的部分をいい、内的形状は対象的部分をいう。

本性相

 内的性相

内的性相は内的形状に対して主体的部分となっている。知的機能における感性とは、五官に映るままに知る能力、直感的に認識する能力を意味し、悟性とは、論理的に原因や理由を問いながら知る能力であり、理性とは、普遍的真理を求める能力、または概念化の能力をいう。

この三つの機能をニュートンが万有引力を発見する過程を例に取って説明すれば次のようになる。万有引力の発見に際して、ニュートンは初めにリンゴが落下する事実をそのまま認識し、次にリンゴが落下する原因を考えて大地とリンゴが互いに引き合っていることを理解し、さらにその後、いろいろな実験や観察などの研究を通じて、地球とリンゴだけでなく、宇宙内の質量をもっているすべての物体が互いに引き合っていることを知るようになったのである。このとき、初めの段階の認識が感性的認識であり、第二の段階の認識が悟性的認識であり、第三の段階の認識が理性的認識すなわち普遍的認識なのである。

 内的形状

内的形状は本性相内の対象的部分をいうが、それはいくつかの形の要素から成り立っている。そのうち重要なものは観念、概念、原則、数理である。

目に見える形(形状)の前に、性相の中にある”形”。

本形状

 神の形状(本形状)を人間に例えれば体に相当するものであり、それはすべての被造 物の有形的な要素(側面)の根本原因である。すなわち人間の体、動物の体、植物の細胞・組織、鉱物の原子・分子などの究極的原因なのである。—
 このように被造物の有形的要素の根本原因が神の形状であるが、この被造物の有形的要素の根本原因には二つの側面がある。一つは素材(質料)的要素であり、もう一つ は無限の形態を取ることのできる可能性(無限応形性)である(万物の形態自体の根本原因は内的形状にある)。

 —水が無形なのは実は無限形であるためである。同様に、神の本形状も、それ自体は一定の形態がないが、いかなる形態の映像にも応ずることのできる応形性、すなわち無限応形性をもっているのである。このように被造物の有形的要素の根本原因には素材的要素と無限応形性の二つがあるが、この二つがまさに神の形状の内容である。
 人間の創作活動は、心が構想した型に一致するように可視的な素材(彫刻の場合、石膏または大理石)を変形させる作業であると見ることができる。言い換えれば、創作とは、 構想の型に素材を一致させる作業であるということができる。神の創造の場合もこれと同じであるといえる。すなわち、本性相内の内的形状の型または鋳型に無限応形性をもっ た素材的要素を与えて、一定の具体的な形態を備えさせる作業を創造ということができるのである。

本形状と科学

 被造物の有形的側面の根本原因である素材的要素とは、要するに科学の対象である物質の根本原因であるが、素材的要素と科学はいかなる関係にあるのであろうか。 今日の科学は、物質の根本原因は素粒子の前段階としてのエネルギー(物理的エネルギー)であり、そのエネルギーは粒子性と波動性を帯びていると見ている。しかし科学は結果の世界、現象の世界だけを研究の対象としているために、それは究極的な第一原因ではありえない。本原相論は、その究極的原因をまさに本形状であると見るのである。したがって本形状とは、科学的に表現すればエネルギーの前段階であって、それは「前段階エネルギー(Prior-stage Energy)」、または簡単に「前エネルギー(Pre-Energy)」ということができるであろう。

本形状と力

 神の創造において、本形状である前エネルギーから授受作用(後述)によって、二つの力(エネルギー)が発生すると見る。その一つは「形成エネルギー」(Forming Energy)であり、他の一つは「作用エネルギー」(Acting Energy)である。
 形成エネルギーは直ちに粒子化して物質的素材となり、万物を形成するのであるが、作用エネルギーは、万物に作用して、万物相互間に授け受ける力(例:求心力と遠心力)を引き起こす。その力を統一思想では原力(Prime Force)と呼ぶ。そして原力が万物を通じて作用力として現れるとき、その作用力を万有原力(Universal Prime Force)と呼ぶのである。
 本形状から授受作用によって形成エネルギーおよび作用エネルギーが発生するとき、愛の根源である心情が授受作用の土台となるために、発生する二つのエネルギーは単純な物理的なエネルギーではなく、物理的エネルギーと愛の力との複合物なのである。
 したがって原力にも万有原力にも、愛の力が含まれているのである(文先生は一九七四年五月の「希望の日晩餐会」での講演以後、しばしば「万有原力にも愛の力が作用する」と語っておられる。)

統一思想要綱P26-47より抜粋