総序 その1

人間の幸福

本文

 人間は、何人といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。個人のささいな出来事から、歴史を左右する重大な問題に至るまで、すべては結局のところ、等しく、幸福になろうとする生の表現にほかならないのである。

 それでは、幸福はいかにしたら得られるのであろうか。人間はだれでも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。というのは、その欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。しかしながら、我々をして不義を実らせるような欲望は、決して人間の本心からわき出づるものではない。人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。これこそ正に、死の暗闇を押しのけて、命の光を探し求めながら、つらく、険しい人の道を彷徨する偽らざる人生の姿なのである。いったい、不義なる欲望のままに行動して、本心から喜べるような幸福を味わい得る人間がいるであろうか。このような欲望を満たすたびごとに、人間はだれしも良心の呵責を受け、苦悶するようになるのである。その子供に悪いことを教える父母がいるであろうか。その子弟を不義に導く教師がいるであろうか。だれしも悪を憎み、善を立てようとするのは、万人共通の本心の発露なのである。(21-22)

概要
  • 人間は、何人といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。
  • それでは、幸福はいかにしたら得られるのであろうか。
  • 幸福は、自己の欲望が満たされるとき、感ずるのである。
  • 欲望などといえば、我々はその本意を取り違えやすい生活環境の中に生きている。
  • しかし、人間の本心は、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けている。
補足

 人間の普遍的な欲求。それは幸福を求める心。
 人間が幸福になる方法、結論を初めに述べ「幸福の実現=欲望を満たすこと」であると結論づける。しかし、その欲望には「善」「悪」二つがあり、人間の「本心」は常に善の欲望を指向しながら、悪なる欲望を必死なって排除している。それは、人間の本心はそのような欲望によっては、決して幸福になれないことを知っているからである。

※ここで言う「本心」とは「良心」とよく似た心だが良心よりもより神に近い心。詳しくは創造原理で解説されています。

人間の矛盾性と堕落

本文

 とりわけ、このような本心の指向する欲望に従って、善を行おうと身もだえする努力の生活こそ、ほかならぬ修道者たちの生活である。しかしながら、有史以来、ひたすらにその本心のみに従って生きることのできた人間は一人もいなかった。それゆえ、聖書には「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない」(ロマ三・10、11)と記されているのである。また人間のこのような悲惨な姿に直面したパウロは「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ロマ七・22~24)と慨嘆したのであった。ここにおいて、我々は、善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない。したがって、このような矛盾性をもつようになった人間は、正に破滅状態に陥っているということができる。ところで、このような人間の矛盾性は、人間が地上に初めて生を享けたときからあったものとは、到底考えられない。なぜかといえば、いかなる存在でも、矛盾性を内包したままでは、生成することさえも不可能だからである。もし人間が、地上に生を享ける以前から、既にこのような矛盾性を内包せざるを得ないような、運命的な存在であったとすれば、生まれるというそのこと自体不可能であったといえよう。したがって、人間がもっているこのような矛盾性は、後天的に生じたものだと見なければなるまい。人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。(22-23)

 このような観点から見るとき、我々は、人間は堕落したのだという結論に到達する。と同時に、だれしもこの結論に対しては反駁する余地がないということをもまた知るのである。人間は、このように堕落して自己破滅に瀕しているということを知っているがゆえに、邪心からくる悪の欲望を取り除き、本心から生じてくる善の欲望に従って、一つの目的を指向することによって、それ自体の矛盾性を除去しようと、必死の努力をしているのである。しかし、悲しいかな、我々は、その究極において、善と悪とがそもそもいかなるものなのかという問題を解くことができずにいるのである。例えば、有神論と無神論とについて考えるとき、二つのうちいずれか一つを善と見なせば、他の一つは悪ということになるのであるが、我々はいまだどちらが正し いかということに対する絶対的な定説をもっていないのである。いわんや、人間は、善の欲望を生ぜしめる本心というものがそもそもいかなるものなのか、また、この本心に反して悪の欲望を起こさしめる邪心というものがいったいどこから生じてくるものなのか、さらにまた、人間にこのような矛盾性をもたしめ、破 滅を招来せしめるその根本原因はいったい何なのかなどという問題に対しては、全く無知なのである。それゆえ、我々が悪の欲望を抑え、善の欲望に従い、本心 が指向する善の生活をなすためには、この無知を完全に克服して、善悪を判別できるようにならなければならないのである。(23-23)

概要
  • 人間は、善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性がある。
  • この本心と邪心は、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開している。これが人間の矛盾性である。
  • 存在するものが、いかなるものであっても、自体内に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない。
  • 人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶ。
補足

 人類誕生以来、本心のみに従って生きることのできた人間は”一人もいなかった”(統一原理で言うところの”個性完成者”であった「イエス・キリスト」を除いて良いと考える)。

 人間は誰でも、その心の中で、悪なる欲望を達成させようとする「邪心」と善の欲望を成就しようとする「本心」が常に葛藤している。つまり矛盾する二つの心が存在している。これは全く正反対の方向性を持った二つの心。言い換えれば創造と破壊。親や子を犠牲(殺害)にしてでも自己の快楽を求める心。このような事を行う存在は人間しかいない。 

 理想や夢を追い求める人であればあるほど、現実とのギャップを感じ矛盾を感じる量も多くなる。そして、常にその矛盾と闘いながら生活しているが、人はそもそも「善」や「悪」がいかなるものなのか、善の欲望を生じせしめる「本心」とは、また悪の欲望を起こさしめる「邪心」というものが何なのか、どこから生じてくるのかを知らないでいる。
 人類は堕落したがために、善悪の定義が非常に曖昧であり、その時代や民族、文化背景においても善悪観が異なるが、絶対的な「善」「悪」の定義がある(創造原理で述べる)。

人間の無知と真理探究

本文

 人間の堕落を知的な面から見れば、それはとりもなおさず、我々人間が無知に陥ったということを意味するのである。しかるに、人間は、心と体との内外両面からなっているので、知的な面においても、内外両面の知をもっているわけである。したがって、無知にも、内的な無知と外的な無知との二種類がある。内的な無知とは、宗教的にいえば、霊的無知をいうのであって、人間はどこから来たのか、生の目的とは何か、死後はいったいどうなるのか、更に進んで、来世や神などというものは果たして存在するのか、また既に述べたように、善とか悪とかいうものはいったい何なのかなどという問題に対する無知をいうのである。また、もう一つの外的な無知とは、人間の肉身をはじめとする自然界に対する無知をいうのであり、すべての物質世界の根本は何であるか、また、それらのすべての現象は各々どのような法則によって生ずるのか、という問題などに対する無知をいうのである。人間は有史以来今日に至るまで、休むことなく、無知から知へと、無知を克服しようとして真理を探し求めてきた。その際、内的無知を克服して内的知に至る道を見いだすべく内的真理を探求してきたのがすなわち宗教であり、外的無知を克服して外的知への道を見いだすべく外的真理を探求してきたのが科学なのである。このような角度から理解すれば、宗教と科学とは、人生の両面の無知を克服して両面の知に至る道を見いだすべく両面の真理をそれぞれ探求する手段であったということを知ることができるのであ る。それゆえに、人間がこのような無知から完全に解放されて、本心の欲望が指向する善の方向へのみ進み、永遠の幸福を獲得するためには、宗教と科学とが統一された一つの課題として解決され、内外両面の真理が相通ずるようにならなければならないのである。(23-24)

概要
  • 人間の堕落を知的な面から見れば、人間が無知に陥ったということを意味する。
  • 人間は、心と体との内外両面からなっているので、無知にも、内的な無知と外的な無知とがある。

 ※第一章 創造原理「神の二性性相」を参照

  • 内的無知から内的真理を探求してきたのがすなわち宗教であり、
  • 外的無知から外的真理を探求してきたのが科学である。
  • このように宗教と科学とは、人生の両面の無知を克服して両面の知に至る道を見いだすべく両面の真理を探求する手段であった。
補足

 内的無知は”霊的無知”であり、宗教や哲学を通して探求(人生の目的、死後の世界、神、善と悪など)。外的無知は”自然界に対する無知”であり、物理や化学、数学を通して探求(物質の根本や、その法則性など)して来た。

本文

 実際の人生の行路において、人間が歩んできた過程を二つに大別してみると、その一つは、物質による結果の世界において、人生の根本問題を解決しようとする道である。このような道を至上のものと考えて歩んできた人々は、極度に発達した科学の前に屈伏し、科学の万能と物質的な幸福とを誇りとしている。しかし人間は、果たして、このような肉身を中心とした外的な条件のみで、完全なる幸福を得ることができるであろうか。科学の発達が極めて安楽な社会環境を築き、しかもその中において、人間が、極度の富貴と栄華とを楽しむことができるとしても、これだけで、果たして人間のその内的な精神的欲求までも、完全に満たし得るであろうか。肉身の快楽にふける俗人の喜びと、清貧を楽しむ道人の喜びとは、全く比べものにならない。王宮の栄耀栄華をかなぐり捨てて、心の住み家を探し求め、所定めぬ求道の行脚を楽しむのは、釈迦一人に限ったことではない。心があって初めて完全な人間となり得 るように、喜びにおいても、心の喜びがあって初めて、肉身の喜びも完全なものとなるのである。今ここに肉身の快楽を求めて、科学の帆を揚げ、物質世界を航海する一人の船頭がいるとしよう。彼が理想とするその岸に到達したとする。しかし、同時にそこが彼の肉身を埋めねばならない墓場であるということを彼は知るに至るであろう。それでは、科学が真に行くべきところはどこであろうか。今までの科学の研究対象は、内的な原因の世界ではなく、外的な結果の世界であった。本質の世界ではなくして、現象の世界であった。しかし、今日に至っては、科学の対象は、外的な結果的な現象の世界から内的な原因的な本質の世界へと、その次元を高めなければならない段階に入ってきているのである。ゆえに、その原因的な心霊世界に対する論理、すなわち内的な真理なくしては、結果的な実体世界に対する科学、すなわち外的な真理も、その究極的な目的を達成することはできないという結論を得るに至ったのである。今や、科学の帆を揚げて外的な真理の航海を終えた船頭が、今また一つ宗教の帆を掲げて、内的な真理の航路へとその舳先を変えるとき、ここに初めて本心が指向する理想郷へと航海を進めていくことができるのである。(24-25)

補足

 大別すると、どのような人間であっても「物質による結果の世界」か「原因的な本質世界」のどちらかの道に重きを置き、その人生を歩んで行く。「物質による結果の世界が重要」と考える人間は、肉身(体)の喜び(衣食住と性欲=着飾ること、食べること、快適な環境を求めること、性的な欲望)がより重要と考える人間である。

 しかし、心(本心)の喜びと体(肉身)の喜びがあって初めて、完全な喜びが得られるようになっているため、「物質による結果の世界が重要」と考えてきた人間は本当の喜びを感じられずにいつかは虚しさを感じるようになっている。

 心と体の関係がそうであるように、宗教と科学も同様であり、科学は内的な原因の世界、本質的な世界を探求しなければならないとい時を向かえている。

本文

 人間が歩んできたいま一つの過程は、結果的な現象世界を超越して、原因的な本質世界において、人生の根本問題を解決しようとする道であった。この道を歩んできたこれまでの哲学や宗教が多大の貢献をなしたことは事実である。しかしながらその反面、それらが我々にあまりにも多くの精神的な重荷を負わせてきたということも、また否定することのできない事実であろう。歴史上に現れたすべての哲人、聖賢たちは、人生の行くべき道を見いだすべく、それぞれそ の時代において、先駆的な開拓の道に立たされたのであるが、彼らが成し遂げた業績はすべて、今日の我々にとってはかえって重荷となってしまっているのである。このことについて我々はもう一度冷静になって考えてみる必要があるのではなかろうか。哲人の中のだれが我々の苦悶を最終的に解決してくれたであろうか。聖賢の中のだれが人生と宇宙の根本問題を解決し、我々の歩むべき道を明確に示してくれたであろうか。彼らが提示した主義や思想は、むしろ我々が解決して歩まなければならない種々様々の懐疑と、数多くの課題とを提起したにすぎなかったのである。そうして、あらゆる宗教は、暗中模索していたそれぞれの時代の数多くの心霊の行く手を照らしだしていた蘇生の光を、時の流れとともにいつしか失ってしまい、今やそのかすかな残光のみが、彼らの残骸を見苦しく照らしているにすぎないのである。

 すべての人類の救済を標榜して、二〇〇〇年の歴史の渦巻の中で成長し、今や世界的な版図をもつようになったキリスト教の歴史を取りあげてみよう。ローマ帝国のあの残虐無道の迫害の中にあっても、むしろますます力強く命の光を燃え立たせ、ローマ人たちをして、十字架につけられたイエスの死の前にひざまずかせた、あのキリストの精神は、その後どうなったのであろうか。悲しいかな、中世封建社会は、キリスト教を生きながらにして埋葬してしまったのである。この墓場の中から、新しい命を絶叫する宗教改革ののろしは空高く輝きはじめたのであったが、しかし、その光も激動する暗黒の波を支えきることはできなかった。初代教会の愛が消え、資本主義の財欲の嵐が、全ヨーロッパのキリスト教社会を吹き荒らし、飢餓に苦しむ数多くの庶民たちが貧民窟から泣き叫ぶとき、彼らに対する救いの喊声は、天からではなく地から聞こえてきたのであった。これがすなわち共産主義である。神の愛を叫びつつ出発したキリスト教が、その叫び声のみを残して初代教会の残骸と化してしまったとき、このように無慈悲な世界に神のいるはずがあろうかと、反旗を翻す者たちが現れたとしても無理からぬことである。このようにして現れたのが唯物思想であった。かくしてキリスト教社会は唯物思想の温床となったのである。共産主義はこの温床から良い肥料を吸収しながら、すくすくと成長していった。彼らの実践を凌駕する力をもたず、彼らの理論を克服できる真理を提示し得なかったキリスト教は、共産主義が自己の懐から芽生え、育ち、その版図を世界的に広めていく有様を眼前に眺めながらも、手を束ねたまま、何らの対策も講ずることができなかったのである。これは甚だ寒心に堪えないことであった。のみならず、すべての人類はみな同じ父母から生まれた子孫であるという教理に従って、それを教え、かつ信じているキリスト教国家の国民たちが、皮膚の色が違うというただそれだけの理由をもって、その兄弟たちと生活を同じくすることができないという現実は、キリストのみ言に対する実践力が失われ、灰色に塗られた墓場のごとく形式化してしまった現下のキリスト教の実情を、そのまま浮き彫りにする代表的な例だということができよう。

 しかし、このような社会的な悲劇は、人間の努力いかんによって、あるいは終わらせることができるかもしれない。けれども、人間の努力をもってしては、いかんともなし得ない社会悪が一つある。それは、淫乱の弊害である。キリスト教の教理では、これはすべての罪の中でも最も大きな罪として取り扱われているのであるが、しかし、今日のキリスト教社会が、現代人が陥っていくこの淪落への道を防ぐことができずにいるということは、何よりもまた嘆かわしい実情といわなければなるまい。今日のキリスト教が、そのような世代の激流の中で、混乱し、分裂し、背倫の渦の中に巻きこまれていこうとする数多くの命に対して、手を束ねたまま何らの対策をも立てることができないというこの現実は、いったい何を意味するのであろうか。それは、従来のキリスト教が、現代の人類に対する救いの摂理において、いかに無能な立場に立っているかという事実を如実に証明するものと見なければならないのである。(25-28)

補足

 ならば、もう一つの道「原因的な本質世界」に重きを置き、その人生を歩んで来た哲人、聖賢たちの人生を倣うべきなのだろうか? そうではない。

 「キリスト教」の力は衰え、神の名のもとに多くの人びとが犠牲になっていく中で、「神などいるものか!」と叫ぶ人々は、形を変えて巧妙に浸透している「無神論」「唯物思想」を受け入れ、世の中をますます混乱させている。

 その中でも最も困難な社会悪は「淫乱の弊害」であり、その結果として起こる「家庭崩壊」である。

 キリスト教においても”最大の罪”とされているはずのこの社会悪(淫乱)は、様々に形を変えながら益々広がり、人間社会の最も根本であり、人格形成の土台を築きあげるはずの「家庭」を完全に破壊しようとしている。

 「淫乱の弊害」を克服する手段は、既存の宗教や思想、哲学においては不可能である。

本文

 それでは、内的な真理を探し求めてきた宗教人たちが、その本来の使命を全うすることができなくなった原因は、いったいどこにあるのだろうか。本質世界と現象世界との関係は、例えていうならば、心と体との関係に等しく、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、そして、主体的なものと対象的なものとの関係をもっているのである。心と体とが完全に一つになってこそ完全なる人格をつくることができるように、本質と現象との二つの世界も、それらが完全に合致して初めて、理想世界をつくることができるのである。それゆえ、心と体との関係と同じく、本質世界を離れた現象世界はあり得ず、現象世界を離れた本質世界もあり得ないのである。したがって、現実を離れた来世はあり得ないがゆえに、真の肉身の幸福なくしては、その心霊的な喜びもあり得ないのである。しかしながら、今日までの宗教は来世を探し求めるために、現実を必死になって否定し、心霊的な喜びのために、肉身の幸福を蔑視してきたのである。しかしながら、いかに否定しようとしても否定できない現実と、離れようとしても離れることができず影のように付きまとう肉身的な幸福への欲望が、執拗に修道者たちを苦悩の谷底へと引きずっていくのである。ここにおいて、我々は、宗教人たちの修道の生活の中にも、このような矛盾性のあることを発見するのである。このような矛盾性を内包した修道生活の破滅、これがとりもなおさず今日の宗教人たちの生態なのである。このように、自家撞着を打開できないところに、現代の宗教が無能化してしまった主要な原因があると思われるのである。

 さて、宗教が、このような運命の道をたどるようになったのには、更にもう一つの重要な原因があるのである。それは、科学の発達に伴い、人間の知性が最高度に啓発された結果、現代人はすべての事物に対して科学的な認識を必要とするようになったにもかかわらず、旧態依然たる宗教の教理には、科学的な解明が全面的に欠如しているという事実である。すなわち、既に述 べたように、内的な真理と外的な真理とが、いまだに一致点に到達できていないというところに、その原因があるのである。宗教の究極的な目的は、まず心をもって信じ、それを実践することによって初めて達成されるのである。ところで、信ずるということは、知ることなしにはあり得ないことである。我々が聖書を研究するのも、結局は真理を知ることによって信仰を立てるためであり、イエスが様々の奇跡を行われたというのも、彼がメシヤであることを知らせて、信じさせるためであった。ここにおいて、知るということは、すなわち、認識するということを意味するのであるが、人間は、あくまでも論理的であると同時に、実証的なもの、すなわち科学的なものでなければ、真に認識するということはできないので、結局、宗教も科学的なものでない限り、よく知ってそれから信ずるということが不可能となり、宗教の目的を達成することはできないという結論に到達するのである。このように、内的真理にも論証的な解明が必要となり、宗教は長い歴史の期間を通じて、それ自体が科学的に解明できる時代を追求してきたのである。(28-29)

補足

 宗教人たちがその使命を全うできないでいる原因は、現実を否定し心霊的な喜びのために、肉身(衣食住性)の幸福を蔑視してきたことである。

 宗教人たちが求める「本質世界」と目に見えている「現実世界」は、心と体との関係に等しく、心と体とが完全に一つになってこそ完全な人格と健康な人生が営めるのと同様、本質世界と現象世界が完全に一つになってこそ、人類が探し求めて気が「理想世界」が実現する。

※後に「創造原理」で学ぶが、心と体においては心が主体となり、体はその対象である。つまり、心(本質世界)がより重要となる。ここで言っている内容は「心と体」「本質世界と現実世界」は切り離すことができない関係であるという意味。 

 人間は知的存在であるため「理論的」「実証的」なものでなくては、真に認識するという事ができない。しかし、旧態依然たる宗教は科学的な解明が全面的に欠如している。つまり、宗教は科学(理論、実証)的に解明できる時代を追求してきた。
 現代の宗教が無力化している2つの原因
 ①「現実を否定し肉身の幸福を蔑視」
 ②「宗教の教理には科学的解明が欠如」