第二節 万有原力と授受作用および四位基台 その1

(一)万有原力

本文

 神はあらゆる存在の創造主として、時間と空間を超越して、永遠に自存する絶対者である。したがって、神がこのような存在としておられるための根本的な力も、永遠に自存する絶対的なものであり、同時にこれはまた、被造物が存在するためのすべての力を発生せしめる力の根本でもある。このようなすべての力の根本にある力を、我々は万有原力と呼ぶ。

概要
補足

 図を見ると万有原力が神と別の力であるように見えるが、万有原力も神の力である。性相内の心情の衝動力形状内の前エネルギーとの授受作用(次項)によって形成された力。この力が万物に作用すると授受作用を起こさせる力となる。
 万有原力は授受作用の原因となる力であり、神自体をも存在せしめる力。神自体もその自体内で万有原力により授受作用をしているから存在できる。

※サタンを中心として授受作用を行うことでも力は発生するが、この時の授受作用の原因となる力は万有原力ではなく自己中心的な心である。神中心の授受作用とサタン中心の授受作用はその原因から異なっている。

参考

原理を理解するにおいて重要な「心情」

 文先生は、原理講論の中に心情についてもっと書かないといけないと言われた。
 神の最も核心的な要素は性相の核心でもある「心情」である。文先生が証された神様はまさに「心情の神」である。
 原理を深く理解する上において、あるいは神を知る上において「神の心情」とは何かと知ることは非常に重要であるので、以下に統一思想要綱の抜粋を載せる。

 統一思想は現実問題の解決に直接関連する神性として、心情、ロゴス、創造性の三つを挙げている。その中でも心情が最も重要であり、それは今までいかなる宗教も扱わなかった神性である。

心情とは何か

 心情は神の性相の最も核心となる部分であって、「愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動」である。

心情は情的衝動である

 情的な衝動とは内部からわきあがる抑えがたい願望または欲望を意味する。普通の願望や欲望は意志で抑えることができるが、情的な衝動は人間の意志では抑えられないのである。

 欲望は達成されてこそ満たされる。しかるに大部分の人間にとって、喜ぼうとする欲望が満たされないでいるのは、喜びは愛を通じてしか得られないということが分かっていないからである。そして喜びが愛を通じてしか得られないのは、その喜びの根拠が神にあるからである。

神は心情である

 神は心情すなわち愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動をもっているが、そのような神の衝動は人間の衝動とは比較にもならないほど抑えがたいものであった。人間は相似の法則に従って、そのような神の心情を受け継いだので、たとえ堕落して愛を喪失したとしても、喜ぼうとする衝動はそのまま残っている。ゆえに、情的な衝動を抑えることは難しいのである。
 ところで神において、喜ぼうとする情的な衝動は、愛そうとする衝動によって支えられている。真の喜びは真の愛を通じなければ得られないからである。したがって、愛そうとする衝動は喜ぼうとする衝動よりも強いのである。愛の衝動は愛さずにはいられない欲望を意味する。そして愛さずにはいられないということは、愛の対象をもたずにはいられないことを意味する。
 そのような愛の衝動によって喜ぼうとする衝動が触発される。したがって愛の衝動が一次的なものであり、喜びの衝動は二次的なものである。ゆえに愛は決して喜びのための手段ではなく、ただ無条件的な衝動なのである。そして愛の必然的な結果が喜びである。
 したがって愛と喜びは表裏の関係にあり、喜ぼうとする衝動も実は愛そうとする衝動が表面化したものにすぎない。
 ゆえに神の心情は、「限りなく愛そうとする情的な衝動」であるとも表現することができる。
 愛には必ず対象が必要である。特に神の愛は抑えられない衝動であるから、その愛の対象が絶対的に必要であった。したがって創造は必然的、不可避的であり、決して偶発的なものではなかった。

 宇宙創造と心情

 創造の動機から見るとき、人間と万物は神の愛の対象であるが、結果から見るとき、人間と万物は神の喜びの対象なのである。
 このように心情を動機とする宇宙創造の理論(心情動機説)は創造説が正しいか生成説が正しいかという一つの現実問題を解決することになる。
 神の性相は内的性相と内的形状から成っているが、内的性相は内的形状より内的である。そして心情は内的性相よりさらに内的である。このような関係は、創造本然の人間の性相においても同じである。

  心情と原力

 宇宙万物はいったん創造されたのちにも、絶えず神から一定の力を受けている。被造物はこの力を受けて個体間においても力を授受している。前者は縦的な力であり、後者は横的な力である。統一思想では前者を原力といい、後者を万有原力という(原理講論においては区別せず、原力も万有原力としている) 。
 ところでこの原力も、実は原相内の授受作用、すなわち性相と形状の授受作用によって形成された新生体(合成体)である。具体的にいえば、性相内の心情の衝動力形状内の前エネルギーとの授受作用によって形成された新しい力が原力である。その力が、万物に作用して、横的な万有原力として現れて、万物相互間の授受作用を起こすのである。したがって万有原力は神の原力の延長なのである。 
 万有原力が心情の衝動力と前エネルギーによって形成された原力の延長であるということは、宇宙内の万物相互間には、物理学的な力のみならず愛の力も作用していることを意味する(ただし万物の各位に従って、神の愛の力は次元を異にしながら現れる。人間においてその愛は全面的に現れるようになっている)。したがって人間が互いに愛し合うのは、そうしても、しなくても良いというような、恣意的なものではなく、人間ならば誰でも従わなくてはならない天道なのである。
 このように「心情と原力の関係」に関する理論も、また一つの現実問題の解決の基準となることが分かる。すなわち「人間は必ず他人を愛する必要があるのか」、「時によっては闘争(暴力)が必要な時もあるのではないか」、「敵を愛すべきか、打ち倒すべきか」というような現実問題に対する解答がこの理論の中にあることが分かる。

統一思想要綱P52-58より

 原理から見るとき心情とは「愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動」である。
 また、これは決して利己的なものではない。なぜなら、喜びは愛(真の愛)を投入した結果である(愛の投入と喜びの量は相対的と言える)ので、神の心情は「限りなく愛そうとする情的な衝動」であると言える。
 一般的には「心情=心の中にあって、まだ言葉に発せられていない感情」となるが、神あるいは本然の人間においてその心の中にある感情は「愛したい衝動」で満ちているのである。
 更に、愛には必ず対象が必要であるため、神の創造は必然的、不可避的であった。ゆえに統一原理では宇宙の創造の理由を「心情動機説」であるとしている。
 万有原力は、神の心情の衝動力と本形状内の前エネルギーとの授受作用によって形成された力である(※)。
 すべての力の根本となる万有原力が、神の心情の衝動力が原因となっているのなら、あらゆる存在に神の愛の力含まれていることとなる。

※「時間」も神が創造したものであるが、神自体内においては「無時間」であるため、「原因(万有原力)→結果(授受作用)」の因果関係は超越していると考えられる。

神の心情に関する文先生のみ言

万物に宿る神の心情

 それでは神様の遍在性をどのように感じるのでしょうか。空気を神様の息吹のように感じなさい。台風が吹いてきたら、それを神様がこの世界のために受難の道を克服してこられながら流された汗のように感じなさいというのです。太陽を眺めれば、その太陽がこの宇宙全体の生命の要因を象徴していることを知って、神様の愛を太陽に学ぶのです。神様の心情を体恤する一つの教本であり、教材として展開させたもの、愛する息子、娘を喜ばせるための教材として立てられたのが自然です。木の葉を見て自分の息子、娘のように思って一人つぶやくことができる人がいれば、彼は聖人に近いのです。(天聖経:真の神様)

 本来、神様は天地万物を遊び道具として造られたのではありません。趣味で造られたのではありません。目的も方向もなく、何らの理念的な内容もなく、ただ造られたのではありません。それは大きな目的と大宇宙の理念をもって造られました。それゆえ極めて微少な物から宇宙に至るまで、すべての存在物には、神様の心情を通じた理念が宿っているということを私たちは否定することができません。それではこのような理念をもって造られた目的は何なのでしょうか。神様の愛を中心とした理念の世界、すなわち愛とともに通じ、愛とともに喜び、愛とともに生き、愛とともに死ぬという世界を目的とされたに違いないのです。(天聖経:真の神様)

 因縁というのは極めて小さいところから結ばれるものです。皆さんの個体も百兆個もの細胞で因縁が結ばれた生命体です。神様の愛を中心とした創造理念世界、すなわち大宇宙のすべての存在物はどれ一つをとってみても、神様の心情の外で生じたものはありません。このようなことを感じる詩人がいたとすれば偉大な詩人です。一枚の木の葉が揺れるのを見て天宙的な心情を感じ、それを表現できる詩人がいたとすれば、それは宇宙的な詩人だといえます。(天聖経:真の神様)

 私たちの周囲で無意識のうちに繰り広げられている天下万象は、神様の愛と共に存在するものであるという事実を知りませんでした。神霊な境地に入ると、小さな一粒の砂にも宇宙の道理があり、原子一つにも無窮無尽な宇宙の調和があるということを知ることができます。存在するものすべては、はっきりとは分からないけれども、ある複合的な力を通じて現れた結果だということを否定することはできません。分子を経て原子、原子を経て素粒子……。このようなものが無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的を備えて存在するのです。それゆえ存在するすべての物は、神様の愛の手を経てできたものであり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在しているという事実を、徹底的に知らなければなりません。(天聖経:真の神様)

 修道者とはどのような人なのでしょうか。一株の草をつかんでも「神様!」と言うことのできる心情で、自分の価値と同等にその価値を認識することのできる人が最高の修道者だと言えます。そのように、その価値をうたうことのできる人が最高の芸術家だと言うことができます。様々に存在する万象を見て、神様の様々な愛と心情の妙味を発見し、それらと友となり、共に楽しむことのできる感情をもった人がいるとするならば、そのような感情で細胞の一つ一つが動く人がいるとするならば、その人は全宇宙を代表することのできる人だと言えます。そのような人が万物の霊長です。ところが食べること以外に能のない人が万物の霊長と言えるでしょうか。(天聖経:真の神様)

 神様の愛が宿っている自然を見て、「この世の王や有名な人がもっている立派だと言われる物に比べることができるであろうか。骨董品と比べられるであろうか。有名な婦人が着ている豪華な服と比べ物になろうか」という思いをもたなければなりません。それができなければ私たちは自然世界の前に我知らず罪を犯しているのです。一つの生命体を見て「人間がつくった物と比べることがでようか。どんなに立派な人でも神様よりも立派であるはずはない」と、神様が心情を注いで造られた万物にすがって何よりも貴く感じる者がいるとするならば、その人は天の息子、娘に違いありません。このような人には祈祷が必要ありません。神様のように生きる人です。天は人間をそのような位置にまで押し出すのです。(天聖経:真の神様)

 人間は自分の愛する人のものは何でも好み、かわいがります。それなのに、最も愛すべき神様の造られた万物をかわいがらないのです。このような人々が神様の息子、娘でしょうか。嘆息する万物の恨を解怨すべき責任を負った皆さんは、一本の木、一株の草からも六千年前、それらを造られたときの神様の心情と創造のみ手を体恤しなければなりません。そのような心をもたなければなりません。それゆえ道の途中で一株の草を見ても、涙することができなければなりません。「主人を失ってどれほど寂しかったことか」と言いながらです。ここで話をしているこの私はたくさん泣きました。岩につかまって泣きもしたし、風が吹くのを見ても泣いたことがあります。なぜそうでなければならないのか、み言を聞いたので、もう理解できることでしょう。(天聖経:真の神様)

神の心情 

 神様は生命を投入しても愛さずにはいられない方であり、生命を投入しても愛さなければ気が済まない方である。(1971.9.19)

 宇宙の根本は何かというと、男性と女性です。プラスとマイナス、男性と女性の愛を中心として成り立っているのです。それが生殖器原論です。すべてそのようになっているでしょう? カンガルーなど、何の動物であれ、見てみれば、産まれるとすぐに、まずおっぱいを探していきます。生殖器を見てみても、羽の付け根の中にあるものもいて、ありとあらゆるものがいるのですが、それをどうやって探していきますか。それは、超音波のようなものがあるのです。それを連結させる宇宙の根源が万有原力です。万有原力は、神様の本質的力をいうのです。(天聖経:宇宙の根本)

 神様の息子になろうとすれば、神様の心情に似なければなりません。神の心情は、世界に植えられています。ですから、世界の人を愛さなければなりません。距離が離れている関係で愛せないというならば、その国を愛し、氏族を愛し、家庭を愛し、父母を愛さなければなりません。なぜなら、父母は神様、夫婦はアダムとエバ、子女は世界の人類を代表した立場にあるからです。(天聖経:成約人への道)

 私たちは、心の福地を成すことができる一つの中心を立て、心情の福地を成すことができる一つの中心を立てて、心情と心と体が通じることができる一つの基準を求めなければなりません。そうして体と心が一つになったのちには、世界を抱かなければなりません。ですから今日のこの時代には、世界主義よりも大きい天宙主義の理念が現れなければなりません。そうして人間がこの地で生活する上で、その神主義を中心として体と心が天の心情と通じることができる確固とした基準を立てなければ、私たちは幸せに暮らすことはできないのです。(天聖経:成約人への道)

 孝子は、自分の為にいるのではなく、父母だけの為にいるのです。忠臣は、自分の為にいるのではなく、国王の為にいるのです。聖人は、神様だけの為にいるのです。それ故に聖人は、神様の道理を教えてあげました。
 それでは、神様の願いとは何でしょうか。世界を救う事です。神様の事情とは何でしょうか。息子、娘を愛したいと思っていらっしゃるという事です。神様の愛の願いとは何でしょうか。その愛に酔って暮らしたいと思っていらっしゃるのが、神様の愛の願いです。
 それ故に、神様の願いと事情と心情に通じなければなりません。それに通じなければ、孝子になる事はできません。それが統一教会の骨子となる思想です。神様の事情を知ろうという人が、神様がいるのかいないのか分からなくていいのですか。神様の願いが何なのか分からなくて、孝子になる事ができますか。
 神様の心情が悲しいのかうれしいのか分からなくて、孝子になる事ができますか。到底不可能な話です。孝子になる道は簡単です。父母のより多くの苦しみに自分が責任を持とうという立場が孝子となる道です。(一九七二.九.一〇)(天聖経:真の孝の生活)

 神様は、この様に真のみ旨を成す為に、御自身のような人、全体の価値の代わりをする事が出来る人を取り戻す為に、人間が神様に対して忠誠を尽くす前に神様が人間に対して先に忠誠を尽くされたのであり、無限に忍耐してこられたのです。
 したがって、皆さんは、天倫を中心として運行なさる神様と、み旨を成就する為に人間に対して無限に忠誠を尽くされたその事情を体恤しなければならず、この志を立てる為に無限に犠牲になってこられた神様の心情、また未来の理念を立てる為に無限に御自身を超越なさった神様の心情、無限に与えようとされる神様の愛の心情を体恤しなければなりません。(一九五七.八.四)(天聖経:真の孝の生活)

 統一教会の先生の誇りは、神様を知っている事です。霊界で知っている以上に知っているというのです。人が行くら多いといっても、神様の心情を知っている人を最も喜びます。宗教人達が涙に濡れて膝迄へこむほど一生の間祈祷をしても、イエス様に出会い導きを受けるかどうかくらいです。にもかかわらず皆様がここに来て先生に会い、この様な話を聞く事が出来るというのは歴史的な事件です。(天聖経:人間の生と霊魂の世界)

 神様も知情意をもった方であられるだけに、神様にも願いがあり、事情があり、心情があります。神様の願いは何で、神様の心情が何で、神様の事情とは何でしょうか。人間の事情よりも先に知らなければならないこととして、これさえ知ればいいのです。これさえ知れば、自然に人の願いが何であるか一遍に分かるのです。なぜでしょうか。人間の目的は神様であり、神様の目的は人間なので釣り合うのです。人間の事情をよく知って、願いをよく知って、心情をよく知る人は、神様の願い、神様の事情、神様の心情と通じることができるのです。(天聖経:真の神様)

 無限なる神様の愛が目的を中心として愛することのできる本心の根本、これが正に心情です。(天聖経:真の神様)

神様の解放のための生涯(以下全て、天聖経:真の神様より)

※真のご父母様のご心情は神様のご心情でもあります。真の父母様の心情を知ることで神様のご心情がわかります。

 私が悔しいとすればどれほど悔しいでしょうか。歴史上で私以上に悔しい人はいないでしょう。痛哭せよというとき、私以上に痛哭する人はいません。この地上で千年歴史を抱き、失った悲しみを抱いて痛哭する痛哭、文総裁が心から流れ出る神様の心情を感じながら痛哭するその痛哭には及びません。そのような根の上に意地を張って座り、そこで自分がよく食べ、楽に暮らすのですか。そんな者がくたばって死んだ死体は犬も食いません。はっきりと知らなければなりません。

 いつも気分のいい男の姿をして困難な蕩減の峠を平気で越え、神様に侍り続け、神様を慰労しながら峠を越えなければ平和の地上天国はできません。その代表者、公的な人は孤独な人です。ある一人の人が立ち上がって「文先生はこのようなことをされ……」と一言言えば、先生は痛哭する心情をもっています。年を取って涙が渇れる七十のおじいさんなのに、誰もその悲しみの涙が流れるのを止められない寂しさをもっています。そのような父母がいるということを忘れてはなりません。

 皆さん、考えてみてください。私は監獄生活をたくさんしました。五年以上監獄生活をしましたが、雨が降って軒先から落ちる水滴が岩に穴を開けるということを思い、「私の愛の涙の粒が神様の胸の中にしこりとなった恨の岩を貫通することができるならば、そうできれば……」と思いながら、その水滴を見て痛哭した事情が皆さんには分からないことでしょう。流れていく水を見て、この水の流れが神様をお迎えして神様が来られて沐浴することのできる澄んだ水の流れとなったらどれほど良いでしょうか。そのような愛の巣、安息所を、人間として神様に準備してさしあげることのできる子となったらどれほど良いでしょうか。そのような心情の深い世界を皆さんが体験できないとすれば、神様と関係がないのです。

 憤りをどれほど堪えてきたことか知れません。息が詰まり、この五感すべてが一度に詰まって痛哭したことがどれほどたくさんあったことでしょうか。皆さんに会うためではありません。人類の主権者たちを屈服させるためです。どういうことか分かりますか。こん棒や銃剣によってではありません。愛の血統を通して彼らを感化して自然屈服させなければ、天地に神様の願う平和の園ができません。平和の王国建設は不可能です。

 この世で生きるのにどれほど困難なことが多いでしょうか。今日歩いていてどうなるか分かりません。その恐怖の環境から抜け出すことができないかわいそうな人生です。この恐怖の環境と混乱の中に立っている私に教えてくれる師は誰でしょうか。師がいません。ここに立っている私はそのような問題のゆえに痛哭し、身もだえしました。神様がいるならば、なぜ師の役目を果たせないのでしょうか。知ってみれば神様は愛を原則とした師だったのです。これを知らずに神様を恨みました。愛を中心とした師なのです。

 最近は朝起きて顔を洗い、髭を剃りますが、夕方疲れて帰ってきて一時間ほど寝たことがありました。少し横になったのです。それから出ていって顔を洗い、髭を剃っていると、それを見て「どうしたのですか」と、朝ではないと言って笑うのです。そのように暮らすのです。心は一つです。精誠も一つです。先生がどんな方かと、神様に祈祷してみてください。痛哭されます。舌が出て戻らないほど痛哭されるのです。そのような事情をもって暮らす先生だということを知らなければなりません。

 堕落した人間の側では救世主ですが、神様の側から見れば初めに失った真の愛の創造理想を完成する真の息子であり、真の父母です。救世主は堕落によってもたらされた神様の恨を解いてさしあげるために生涯を捧げて犠牲の道を開拓してきた方です。栄光としてだけいらっしゃるお方ではありません。常に神様の心情と共に痛哭し、サタンを屈服させるために心を痛め気をもむお方です。

 誰の神様にするのですか。アメリカの神様にするのですか、大韓民国の神様にするのですか。私の神様にするのですか。どれですか。欲張りですね。そうするには民族以上に神様のために努力すべきです。神様が文総裁が好きだとしても、文総裁以上のことをすれば神様は間違いなく文総裁以上に皆さんを好きになることでしょう。それは間違いない公式ではないですか。そこには異議がありません。私は、私以上に神様を慰め、神様のみ旨のためにより奉仕し、功労を立てることのできる人を求めるのです。もし自分より劣る人を望むとすればそれは独裁者です。

 マラソンの選手がスタートラインから八〇パーセントのところまで来た所で、百メートル、千メートル前に出ているとすればどうしますか。そこで転べばおしまいです。マラソンのチャンピオンが走るときに観衆は「ゆっくり走れ」と言うでしょうか。「速く走れ、速く」と倒れるまでそう言うことでしょう。同じです。記録を作らなければなりません。レバレンド・ムーンが最高記録をもっていてこそ、神様は最高の賞を下さるときに堂々と下さることができるのです。その時まで、その時まで押すのです。

 出発において誤ったのです。あきれて言葉が出ません。出生において過ちがあったとは、大きくなって分かったのですが、養子といっても乞食の中から、孤児院から乞食を連れてきて育てたというのです。これは乞食よりもっとひどいのです。幼いときは自分の両親だと思っていたのに、大きくなってから自分が乞食の息子だったということが分かったのです。乞食の出だということが分かればその家はどうなるでしょうか。ひっくり返るのです。痛哭してひっくり返るのです。育ててくれた両親を自分の本当の両親だと思っていたのに孤児院で育った息子だという事実を知ったならば、どれほど驚くでしょうか。私たち人間世界でもこれほど大変なことなのに、天はそれ以上なのです。神様の王権、天国の王宮の皇太子が野良犬と関係をもってこのようになるとは。地獄の王になるとは。

 文総裁と統一教会の夫婦の理念は、神様の血統を受け継いで生まれた息子、娘として千年万年、永遠な父母に侍り、永遠に我が息子、我が娘とたたえることのできる息子の資格、娘の資格をもつことです。その立場を通過してこそ神様の心の中に残っている堕落の傷を解くことができるのです。そのように神様にすがって「お父様、どれほど苦労されましたか」と言えば、その一言に神様が痛哭をするのです。胸が張り裂けるほど痛哭せざるを得ないのです。「ありがとう、私が数千年の歴史をこのようにしてきた」と言うのです。人類創造歴史が何千万年です。六千年ではありません。それを聖書では文化史を中心として言っているのであり、救いの摂理に着手するためのみ旨を中心としていえば、事実何千万年にもなるのです。

 自分の欲心を中心として統一教会を利用しようという人、ありとあらゆることをした人を歴史上見かけても、知っていてもだまされたふりをしてやりました。なぜだまされてやるのでしょうか。神様が今までそのようにしてだまされてきました。裏切り、背を向ける姿を見るたびにあきれ驚いて「あいつ、雷を落として首を、日本刀があったら一気に首を落としてやりたい」という憤慨と悔しい思いが爆発するのですが、彼らが帰ってくることを願っている天の心があることを思うと、そうはできないのです。かわいそうな神様にすがって許そうという心をもってきたところ、そのたびに節ができます。分かりますか。統一教会の一つの節ができるのです。竹に節があるように、節ができるのです。そうして家庭的節目、氏族的節目、民族的節目を刻んでいくのです。

 歴史的師が生きた苦痛、神様の歴史的苦痛を流し去ってしまってはならないのです。私の心の深い愛を大切にしまい、あの世に行って出会ったら首を抱いて「あなたが悲しかった事情をみな知り、その度数に合わせて生きようとしましたが、及びませんでした。これを許してください」と言いながら涙をのんで痛哭する心が先立つときは、神様にすがって痛哭するとしても神様も共に泣きながらかき抱いてくださるのです。そのような日をもてずしては解放できないと考えている人です。妻の愛がどんなに大きいとしてもその立場に及ばず、父母の愛がどんなに大きいとしてもその立場に及ばないのです。それを知っているので、解放のためによそ見も寄り道もできずに歩んできたのです。

 また会うときまで昼夜を分かたず、御飯が食べたければ先生のことを思い、御飯を食べないでみ旨のために先生がしていることをしなければならず、眠たくなったら眠らない先生を思ってみ旨のために闘っていかなければなりません。非難を受けながらも弁解せずに忍耐してきた師を考えなければなりません。それ以上の心をもち、あすの勝利に対する欲望をもって、自然屈服する怨讐の群れを見るために自らの実績をもって行こうという心をもたなければなりません。そうした努力をしてこそ、皆さんが生きる道があり、この民族が生きることができるのです。

 ある時には、死刑宣告を受けたという連絡を受けたこともありました。そのようなときに統一教会の教主であるこの私が、どうして涙なしに夜を明かすことができるでしょうか。哀れにも私という人を知らなかったならば、そんなことにはならなかったのに。国境を越えに越え、一度も会ったこともない師に従って歩み、最後に東方の韓国に向かって「私は行きます」と両手を合わせて祈り、最後の道を行く彼らを、かき抱いてあげることもできず、助けてあげることができない心情を皆さんは分かりますか。悪魔の前に受難を受け、苦痛を受けて捕虜となっている彼らを哀れに思う天の心情を知りながらも、昼夜を分かたず前進しなければならないと追い立てたのです。

 私は統一教会の教主になろうとは夢にも思いませんでした。今もそうです。私は教主という観念をもっていません。平民なのです。きょうも洋服を着ないでネクタイも結びませんでした。一つでも不足な装いをしてこそ気持ちが楽なのです。なぜでしょうか。統一教会の食口たちは全世界に広まって、この時間にも雨降る軒下でぬれた服を着て先生を慕いながら、「先生が御安泰であられるように」と敬拝していることを知っているからです。福を祈っている立場を蹂躙してはなりません。それで目さえ開けば眠れずに、このような罪人のような教主の生活をしているのです。それゆえに統一教会の教会員たちが文総裁を無視できないのです。